なぜ五月なみに惹かれるのか、それは私にとってもイマイチ明確ではないのだが、それを少しでもはっきりさせるためにも考察をしてみようと思う。
「五月なみ」はもともと、マイナー路線から出てきたモデルで、東京スタジオというアダルト系ビデオ制作会社のビデオがデビュー作である。
つまりデビュー作は写真集ではなくビデオで、『ときめきの詩』『乙女の詩』の2本の出演作がある。
これは2本とも1986年の発売だが、時期が不明でどちらが先にリリースされたものか今一つはっきりしない。
『Alice Club』(以下、アリクラと略す)で特集として取りあげたことがあったが、「昭和61年8月『ときめきの詩』でデビュー」とプロフィールに記してあるにも関わらず、文中では「『ときめきの詩』発売年月日1986年11月」「『乙女の詩』発売年月日1986年6月」と(アリクラでは頻々とあったことだが)いい加減な記述がされていてはっきりしない。
それはともかく、これらのビデオを制作した東京スタジオは、尾坂光義氏が監督(経営も兼ねていたと思われる)を務めていて、五月なみ以前には「星むつき(14歳)」「朝香アリス(15歳)」というモデルが作品を残している。
五月なみがデビューした当時は過熱したロリータブームが“鎮火”しつつあった頃で、倉橋のぞみのデビューと、清岡純子氏のプチトマトシリーズが営々と続いている他はパッとした新刊写真集、新人モデルは見当たらなかった時代である。
五月なみも、デビュー当時はさほどマニアの注目を集める存在ではなかったような憶えがある。
花咲まゆや廣元さとみのような美少女というわけではないし、14歳という年齢は当時のロリータモデルとしては“高年齢”であった。
当時、中〜高校生年齢のモデルを使って「ロリータ」を謳った、いわば“疑似”ロリータ写真集・ビデオが市場を賑わしていた。
これは、当時既に11〜13歳くらいの、最もマニア受けする少女ヌードモデルが調達しにくくなっていたため、それを補うために業界関係者が考え出した苦肉の策であった。
本格的なロリータモデルは、あくまでも恥毛が生える前の11〜12歳くらいまでの少女でなければならず、既に生えている恥毛を剃って「ロリータ少女です」とするのは、“インチキ”であり、そうしたモデルは“似非ロリータ”とされていたのである。
1985年、サイパンで中学生モデルを使ってヌード撮影をしていた山木隆夫氏一行が、サイパンの警察当局に「チャイルドポルノを撮影した」咎で国外退去を命じられ(『少女写真・観』)、またロリータ専門月刊誌として人気のあった『Hey!Buddy』(白夜書房刊)が、増刊号が発禁処分をくらったことを受けて廃刊となるなど、この年を境にロリータ業界に対する風当たりが強くなり出した。
しかし、それまで“ロリータバブル”を享受してきた業界が、すぐにこのうまみのある伝手を手放せるはずもなく、結果調達しやすい高校生年齢の少女をモデルとして登用し「とりあえず下の毛を剃れば後はカメラさんが腕でそれっぽくしてくれるから」という安直な、それでもブームを延命するにはある程度効果のある手法を捻り出したのだった。
このような背景からデビューした五月なみの“売り”は、「14歳とは思えない巨乳」だけと言ってよく、そんなわけで当初は「ああ、また恥毛を剃ったティーンモデルね…」みたいな捉え方が一般的だったと思う。
制作者側もそれは承知していたとみえ、五月なみの場合もさほど「売れる」という自信はなかったと思われる。
だからこそ書籍とは違い、たいして在庫をかかえなくてすむビデオによるデビューとなったのだろう。
五月なみのデビューまでのいきさつについては、よくわかっていない。
ただ、1989年の朝日新聞に彼女を撮影した尾坂光義氏のインタビュー記事があり、それによると尾坂氏は、池袋あたりにたむろする少女たちに声をかけモデルとしてスカウトしていたそうである。 モデル代は1回の撮影で50万を弾んだそうだが、五月なみもそのようにしてスカウトされた少女だったのかもしれない。
しかし、後に出版された唯一のまっとうな写真集『早春賦 五月なみ14歳写真集』の巻末インタビューによると、彼女にはマネージャーが付いていた(らしい)ことがわかっている。
ということは尾坂氏による街頭スカウトによるものではなく、それ以前にどこかの(芸能・モデル)事務所に所属していた可能性もあり、もしかしたらそうした事務所からの“売り込み”だった可能性もある。
当時はほぼ毎月のペースで新刊の少女ヌード写真集・ビデオが刊行されていたから、中小の芸能・モデル事務所は、(中・高校生年齢の)所属モデルの“デビューのきっかけ”として、それらの媒体にも注目していたはずだからである。
ひょっとしたら、東京スタジオの他のモデルらと同じ事務所に所属していたという可能性もあるだろう。
また、逆に東京スタジオ自体が彼女たちのマネージメントをしていたという可能性もある(つまり上記の五月なみのマネージャーは東京スタジオのスタッフなのかも―ということ)。
五月なみがモデルになった経緯はともかく、そうしてマイナー路線でデビューした彼女は、しかし予想外に市場で人気を博し、ビデオの後追いでさーくる社から写真集(というよりMOOK)『ときめきNAMI気道』(1987年3月10日発行*修正版)が発売された。
けれども、ビデオのパッケージ用、あるいは記録用のスチールとして撮影されたためか、本格的な撮影ではまず使われない直射ストロボを使った写真が多いという安直な撮影状態だった。
もともと写真集として発売するよう想定されてはいなかったのかもしれない。
だがしかし、その安直な撮影が、却ってつくりものではない、生々しい14歳の少女のヌードを表現しえたとも言える。
撮影シーンも、どこかの事務所(恐らく撮影スタジオ)、安ホテルっぽいベッドの上、そしてゴルフ場のグリーンの上と、およそそれまでの少女ヌード写真集では使われなかったシチュエーションであった。
それまでの少女ヌード撮影は、少女らしい可愛い小道具や、幻想的なシチュエーション、または大自然をバックにした“風と戯れる”式のシチュエーション設定がほとんどだった。
しかるに尾坂氏が選んだシチュエーションは、タバコの匂いがこびり付いたような場末っぽい、そして“オヤジ”っぽいシチュエーションであり、わかりやすく言えば70年代のピンク映画を連想させるようなものであった。
それはロケで撮影した場合もそうで、撮影された写真を見ると失礼ながらわざわざロケに出かける必要があったのか、と思えてしまう。
「どこか近くの安ホテルで撮影できちゃうんだけど、それだと『ロリータヌード』と銘打つのは憚れるから、とりあえず遠出してみました」という言い訳にすら穿ちうる。
けれどもこうしたシチュエーションと素人が撮影したかのような“生写真”的な写し方が、それまでのロリータアイドルにはなかった、身近な、体臭をさえ感じさせるエロティックな中学生として五月なみをマニアに認知させる効果を発揮したのかもしれない。
右のイラストは、『ときめきの詩』の浴場(ジャングル風呂)におけるいちカットである。
『ときめきの詩』は、八丈島で撮影されたもので、したがって場所は八丈島の宿泊施設である。
こうしたジャングル風呂なら東京近郊にもあるだろうし、だからジャングル風呂が八丈島っぽいかと言えばさほどでもなく、つまりロケの効果は薄い。
それでもしかし、尾坂氏一行はわざわざ八丈島まで出かけて行ったのである。
[ビデオ ]
『ときめきの詩』(監督/尾坂光義 撮影地・八丈島)
『乙女の詩』(監督/尾坂光義 撮影地・栃木〈鬼怒川温泉周辺〉)
『乙女の色』(監督/尾坂光義 再編集版*『ときめきの詩』と『乙女の詩』をまとめたもの)
『風の輪舞(ロンド)』( 監督/尾坂光義 再編集版*内容は上と同じ)
『妖精伝説 Dream6 さゆり14歳」』( 監督/尾坂光義 再編集版?)
[写真集]
『ときめきNAMI気道』(撮影/尾坂光義 さーくる社刊)
『きらめき なみだ白書』(撮影/尾坂光義 さーくる社刊*上記本の再版本)
『早春賦 五月なみ14歳写真集』(撮影/高桑常寿 白夜書房刊)
『MEMORIAL PHOTOGRAPHS 五月なみ14歳 レディっ子シリーズVOL.1』(撮影/尾坂光義 さーくる社)
●文・イラスト/argo.
(つづく)考察・その2